2009年9月 3日 (木)

沈黙させないこと ――ハンナ・アーレント『暗い時代の人間性について』より

 「人間コミュニケーション学」という看板を背負った組織に属していたころ、いろいろな場所で自己紹介をするたびに、「人間コミュニケーション学?それは何ですか?」と、尋ねられることがしばしばあった。

 そういう場合、とりあえず「人間が情報技術を使ってコミュニケーションする事態を、技術的、文化的、社会的に問う試みです」と答えていた。たいていの普通の人はこれで納得するのだが、少し頭の切れる人はすぐに見抜いてくる。これでは「人間コミュニケーション学とは人間のコミュニケーションの学問です」と言っているに等しく、つまり質問と同じ言葉を繰り返しで、特に何かを答えていることにはならないということを。

 そうなると「結局、何のことなのか?」と、また最初と同じ質問を受ける。そのときには「人間コミュニケーション学とは、情報化社会における人間と情報処理-通信技術の関わりについて考える学問です」と言いかえることにしている。この答えであれば比較的多くの人が納得し、それ以上の詰問を取り下げてくれる。

 こうした問いについては、一般的に「人間」を定義し、「コミュニケーション」を定義し、「学」を定義する、という具合に一連の定義を積み重ねることで、ある程度説得力のある「答え」をつくることができる。しかし、私自身が釈然としないのは、他ならぬこの「答えをつくる」作業である。
 
 「答える」ことが、実態としては、ある言葉の別の言葉への言い換えであるとすれば、つねに複数の言い換えの可能性があるはずである。そのとき、可能な言い換えの群のなかから、どれかひとつの言い換え方に特権的な地位を与えることによって、はじめてひとつの語彙の意味するところが定義される、という具合である。そうした定義に基づいて一貫した答え―説明が生まれる。
 この「定義する」ということ、ここに落とし穴が隠れている。社会的な語彙の場合、その定義とは、予めどこかで決まっている規則、決定済みで変更不可能の「所与」のものではないのである。定義とは、それを「定義する」という我々の活動を抜きにしては考えられない。「定義する」という、ひとつの言い換えを他の言い換えからこの特権化する行為は、きわめて意識的かつ無意識的な「選択」なのである。

 となると、人間コミュニケーションとは何か?という問いに対する答えは、ひとつではなく複数あり得ることになる。もちろん、そのなかのどれかひとつに「決定する」よう要求することはたやすい。ただしその決定は、自然な所与ではなく、あくまでも誰彼の決断という行為に依るということを忘れてはならない。

 さて、そこで、「人間コミュニケーションとは何か?」という問いに対して、「それは~である」という答え方で応答し、一義的な結論を断定する前に、しばらく回答を留保し、踏み留まってこの問いに答えるための出発点を踏み固めてみたい。

 そもそも問うことと答えること、それは一体どういうことなのか。
 それを考える手がかりは「沈黙」という言葉にある。

 問題はそもそも「~とはどういうことか?」と問い、答えを求めるとはいかなることとして説明しうるのか、というところにある。ここには「人と人が言葉を交わすこと」について本質的な問題が隠れている。この問いを解き明かす上で、ハンナ・アーレントの『暗い時代の人間性について』(仲正昌樹訳,情況出版,2002年,原著1959年)を読んでみよう。
 『暗い時代の人間性について』は、私たちが、人と人とが「言葉を交わす」ことの意義について再考を促す。この本でアーレントは、とある思想家を引き合いに出しつつ「人と人が議論をすること」こそが、「人がものを考えること」を根本的に支える態度であるとする。

「彼の自立的思考と活動を結び付けていた秘密の関係の本質は、自らの思考を決して結果に結び付けなかったこと、更に言えば、思考自体によって作り出された困難の最終的解決としての“結果”をはっきりと放棄したことにありました。彼の思考は真理を犠牲にするわけですが、それは、いかなる真理であれ、真理は純粋活動としての思考を必然的に静止させてしまうからです。」(同書P.18-19)
 ここでいう「活動」とはアーレントがしばしば用いる概念で、人々が互いに「なにをどう言わねばならないか」が予め決まっていないところで言葉を取り交わすこと、といった意味合いととっておこう。

 注目すべきは、アーレントが、「思考を結果に結び付けない」ということ、そして「真理を犠牲にすること」を、人がたがいにものを考え、議論をすることを根本的に支える態度として評価している点である。
 これはいったいどういうことなのだろうか。
 常識的に考えれば「結論」や「真理」ほど、私たちの思考にとって重要な事柄は無いと思われる。人が思考するとはそれ以上疑い得ない真理を捉える作業であり、人と人とのコミュニケーションは、なんらかの共通の結論、真理に基づく最終的な合意に達するための作業だと言われることもしばしばであろう。ここでは即ち、「みんなが同じように考える」ようになること、「誰が考えてもそれ以上の反論が出ない最終的な解答へと達すること」がコミュニケーションの目指すところだと考えられる。
 しかしアーレントは、こうした結論や真理は思考と議論を制約するものであると言う。
 結論や真理ということを思考やコミュニケーションの到達点として要求する発想は、じつは重大な苦難を含んでいるのである。

 例えば、「みんながひとつの結論に達し、同じように考える」などということが実際に可能だろうか?
 複数の人が「どうしても同じ結論に達することができない」という事態は日常的によくありうることだ。
 一見、みんなが一つの結論に合意したように見えても、実際には疑いを抱きつつも沈黙している人がいたり、よく理解しないままとりあえず合意した振りをしている人がいる、ということだけではない。誰かがどうしても自分たちと同じように考えようとしないとき、例えば「科学的な客観性」を疑うような人があらわれたとき、私たちは「その人は無知蒙昧なのだ」ということで納得してしまう。そして、「ああいう人とは議論してもはじまらない」となる。

 複数の人々のあいだで議論を結論づけるとは、どこかで議論を中断し、それ以上の問題提起を許さないという態度に支えられている。それは結論付け以降の異論に対して「それはもう決まったこと」と言って耳を貸さないという態度である。そこでは最終的解答のあとに沈黙を残すことをめざして、言葉がぶつかりあう。「結論が決定されること」とは、どれかひとつの断言が他のすべての異言を掻き消して、あとには沈黙を、あるいは単調な同語反復を残すことをめざして、沈黙しようとしない人を「黙らせる」ことなのである。

 複数の人々のあいだに沈黙だけを残すような強制的な結論付けに対して、その手前で踏みとどまり、沈黙させないということを可能にすることの大切さを強調するのが、アーレントがここで述べていることの核心である。
 別の所でアーレントはつぎのように書いている。
「一つの決まった世界観を取れば、可能なパースペクティブの一つに固執することになり、世界の中での更なる経験を受けつけなくなってしまいます。」(同書P.15)
 更なる経験を受けつけるとは、ある議論の問題設定(問い方-答え方)を複数化する可能性を認めることである。
 いうなれば「議論が噛み合わない」という根源的な経験に立ち戻り、そこで相手を黙らせようとしないこと。私にとっては何ら問題にならないようなことを、切迫した問題として自分自身に引きうけている他者に対して「それは問題外だから考えるのは止めなさい」と命じないこと。つまり今現在の私の考えには完全に還元することのできない他者の言葉の可能性を認めることなのである。


 複数の人間が互いに「言葉を交わす」ことの核心は、なによりもその「会話を終わらせない」ことにある。
 「会話を終わらせない」とは、例えば、ある問題が、私にとってはまったく問題にならないような瑣末なことであるのに、それがある他者にとっては切実な問題として受けとめられているとき、私の立場から他者に対して「それは問題外だから考えるのは止めなさい」と命じることをしない、ということである。
 別の言い方をすれば、今現在の私の「言葉づかい」に完全に還元することのできない他者の「言葉づかい」の可能性を、私が認めることでもある。 
 そのためには次のような「言葉」についての考え方が要請されます。即ち、私たち複数の人間は「同じひとつの言葉」を語り、聞きあっているようでいて、じつはその言葉の意味するところには各人の「言葉づかい」に応じて大きなばらつきがあるということである。
 そうであるが故に、例えば客観性を必要とする議論はまず言葉の意味を厳密に定義しなければならない、ということになるのである。ひとつの言葉がもともと単一の固定した意味しか持っていないのであれば、そもそも「意味を定義する」という個別の作業は必要ないはずだろう。

 言い換えると、言葉の意味というのは、具体的な話し手や聞き手の間での不断の定義と再定義の繰り返しによって、決定されたり、決定を解除されたりしている「動態」である。「ある言葉Aの意味はA’に決まっている」という言明は、じつは、「言葉Aの意味をA’と決めなさい」という命令なのである。この命令が複数の他者たちを服従させ、沈黙させることができるかどうかはわからない。即ち、「いや、私は言葉Aの意味をBと決める」と宣言する他者の可能性を排除できないのである。

 アーレントがその重要性を指摘した「会話を終わらせない」ということは、言葉を、不断の定義と再定義を繰り返す動態として保つということである。
 そういう会話を開始し、持続させるために必要なことは、まず私が他者の言葉を「聞くこと」である。
 他者の言葉を「聞く」とは、他者の言葉を私の言葉に翻訳してしまうことではなく、逆に、他者の言葉を「私にはよく分からないこと」として留保することである。
 おなじ言語文化圏の他人の言葉であれば、私はその言わんとすることを「おおまかに分かる」ことができてしまう。これは幸運なことではなく、むしろ不幸なことなのである。なぜなら、中途半端にわかったつもりになってしまったことで、「とてもよく分かるような気がするけれど、もしかすると分かっていないのかもしれない」という、曖昧な中間領域を留保する可能性が失われてしまうからである。他者を聞く耳にとって何より重要なことは、私が日常的に用いている、慣れ親しんだ言葉を、私とは違う他者が用いるとき、その意味に、微妙なズレがあるような気がする、という感覚を保持し続けることである。

 言葉は、複数の人間のあいだでの共有性と、個別の個人における特異性という、両義性のもとにある。
 このことをアーレントは、「世界」という概念を用いて考えている。アーレントによれば「世界」とは複数の人間たちの「あいだ」であると規定される。これを敷衍すれば、複数の人間たちとは、私とは違う存在でありながら、かといってまったく無関係な無視できる相手でもない人々のことと考えられる。私が、そういう疎遠でありながら無縁ではない人達と「言葉を交す」ことを可能にしている関係、互いに語ったり聞いたりし合っている空間を成立せしめているものを、仮に「世界」と呼んでいるのである。(『暗い時代の人間性について』 仲正昌樹訳,情況出版,2002年,原著1959年 P.5)

 アーレントのいう「世界」とは、複数の異なる人間たちが言葉を交わす関係性である。
 世界は常に、不断の「会話」、具体的な複数の人間が言葉を発し、聞くことによって保たれている。
 ここで世界と会話は一つなのである。「世界」つまり不断の会話とは、「人間同士が問いかけあい-応えあう関係」であり、その関係こそが世界なのである。

 世界は、ひとびとが語りつづける活動の只中で、不断に維持され、更新される。ここで世界にとって不可欠なのは会話を断たないことだと、アーレントは言う。不断につづく会話こそが、わたしたちがそこで何事かについて語り合うことを可能にする「世界」を開く。
 それは、予め決められた「言うべきこと」の反復に終始することではなく、また真理を呼び出す「最終的な言葉」の断言によってあとに沈黙を残すのではない、終わることの無い会話である。つまり、「何をどう言うべきか」ということが予め決まっていないところで、複数の人間が互いに語りつづけ聞きつづける無限の会話である。

 アーレントは、そういう「世界」が失われてしまうことに警鐘を鳴らしている。
 私たちひとりひとりが言葉を交すことへの信頼を失い、沈黙するとき、言葉が交わされる人間の「あいだ」の空間は失われてしまう。世界を失ったとき人の言葉は他者を失う。他者の声、自己の言葉には還元できない他者の言葉を「聴く耳」を失う。そして「世界」は私の言葉によってすべて最終的かつ決定的に名づけられるものでなければならない、ということになる。

 それ以上を会話を続けることができなくなってしまったとき、あとに残るのは沈黙である。こうした沈黙をやぶるため、アーレントは「世界を聞き取ることができるように」しておくことを呼びかける。(『暗い時代の人間性について』 仲正昌樹訳,情況出版,2002年,原著1959年 P.19)
 他者の言葉を聞くということは、自分自身の、凝り固まったものの考え方に、他の人が提示する別のモノの考え方を衝突させること、つまり複数の人間のあいだには、複数のものの考え方があるのだ、ということを知ることである。
 
 「会話」を閉じないために、つまり世界を不断に呼び出す新たな言葉の生成の共同作業を中断しないために、なによりも必要なことは、他者から発する呼びかけを「聴く耳」である。そうした耳とともに、絶え間なく「多くの声」が響くのである。何を言うべきかが完全に決まっていないところで、繰り返される「語り」と「聴き」は世界に支えられているとともに、絶えずあらゆる事柄について別様のあり方を論じ-問い得る新たな世界を開くのである。

 人間が人間であることの意味もまた、こうした言葉のやりとりの中で、語り重ねられてくるものである。人はそもそも、他者の言葉を聞き、それを引き継いだところに始まっているのである。
 ちなみに、そうした会話における「真理」とは、それ以上の反論を禁じるような固まったものとして与えられるものではなく、あくまでも真理を目指す無限の行為、人と人とのあいだで繰り広げられる、終わることの無い相互行為が目指す、不可視の「ゆくすえ」のような事柄になろうか。

 最初に立てた問いは、そもそも問い‐答えを求めるとはどういうことか?ということであった。
 ある「問い」と、それに対する「答え」もまた、こうした世界での語りと聴きの産物として考えることができるのではないか。
 ここで世界が促すのは「応える-答えを定義する」活動、言語的な命名を、絶えず別の命名へと引き継ぐこと。どこかに「最終的な答え」を決めてしまいそれ以上の問いの連鎖を断ってしまうことのないようにすること。特に、複数の異なる人間の理解に晒される社会的な用語の定義にあっては、それを「既に定義されたこと」として取扱い、既に下された定義について「それはもう決まったこと」として、その定義への新たな問いかけを予め禁じてしまうことは避けねばならない。
 日常的には言葉の意味は、常にせめぎあいの只中にある。言葉の「ただしい定義」は、それ自体としてあるのではなく、常に、「定義する」という活動に基づいているのである。アレントが世界という言葉に託して呼びかけているのは、この定義する活動の複数の可能性を何らかの権威に基づけてひとつに限定してしまうのではなく、ある言葉にかかわる複数の人々のあいだの不断の会話として保つことだと言える。いうなれば、どの断言にも同一化せずに、決定不可能なところで言葉を集め続けることを、アレントは呼びかけている。それによって「決定が下されていないところで、新しくはじめること」、迷うことと、いずれか一つに「決めよ」という既成の選択肢への同一化を迫る命令に抵抗することに、権利を与えるよう求めている。

 さて、ここから、人間コミュニケーションとは何かという問いかけに、仮に答えることができよう。
 つまり人間にとっての情報流通、記号交換とは、どういう事態なのか、アレントの議論からそれを次のように考えることができる。即ちそれは、言いなおし、聴きなおす作業である。
 つまり誰かが何処かで発した断言に同一化することのできないところで、複数の言葉の「あいだ」で、言葉を集めること、「言いかえること」「言葉を付け加えること」の不断の繰り返しである。あるいは「未だ語り得ていない」ことがある、という予感から、言いなおすための「別の言葉」を模索することではないだろうか。そして、一度中断してしまった会話を再びはじめることである。
 そのためには沈黙を聞き取る耳が必要になる。聴きなおすためには、一度聴いたことを何かの一義性へと即決回収しない、わからなさを留保する耳が必要なのである。

 そうした耳を研ぎ澄ますことが、他者を沈黙させないことにつながるのである。


不断の論争としての言葉

 私たちは日常、降り注ぐ暴力と、その暴力を覆い隠し、正当化する言葉の只中に、投げ出されている。そして何より恐ろしいことは、暴力を覆い隠す言葉、そういう言葉を一方的に叩きつけられることが、同時に「私」が私について、世界について、そして他者との関係について「語る」ことを可能にする言葉を「与えられる」ことでもあるということだ。私たちは、与えられた言葉、暴力を覆い隠し、思考を中断させる怒鳴り声のコトバそれ以外に、使える言葉を持たないのだ。少なくとも出発点はそこしかない。

 私たちは、与えられた他者の言葉、暴力を覆い隠し、思考を中断させるコトバ、他人を黙らせるためのコトバに抗して、都度自分自身を生きるための言葉を設えなおさなければいけない。「私」「現実」そして「他者との関係」そして「暴力」について、新しい語り方、記述の仕方を可能にするコトバ、あるいは表現をつむぎ出さなければいけない。そうすることが暴力と暴力の言葉への「抵抗」は現動化することなのである。私たちの思考は、与えられた暴力のコトバを裁ち直すところに、不断の裁ちなおしのプロセスとして可能になる。このプロセスは、言葉を用いるということを、あくまでも所与のコトバ、所与の理屈、所与の名づけに対する「事後的な表現の再構築」として捉えるということ、即ち、所与の言葉からはじめて、その所与性に抵抗し、所与性を剥奪することである。

 暴力を隠蔽し正当化する所与の言葉を「考えなおす」こと、即ちコトバの言い換えのネットワーク、比喩のネットワークを改編することこそ、暴力に対抗する根源的な方途である。これは言葉を「定義」しようとするあらゆる暴力との戦いである。

 言葉を「最終的に定義された固定的なもの」としてではなく、問いなおし得るものとして捉える時、意味とは論争のプロセスとなる。

 こうした意味での論争を私たち、ひとりひとりが日々、生活のなかで行うとき、そこにはじめて自由な社会というものを可能性として考えることができるようになるのだろう。。他者の言葉の無思考な反復からは、意味をめぐるせめぎあいは生まれない。無論、この実践は簡単なことではない、この論争は他者の言葉のみならず、そもそもまず、これまでの自分が使ってきた言葉、これまでのコトバで描き出された自分自身に対する戦いなのである。自分の言葉にさえ、決して説得されないということ。これは大きな精神的危機を我々に強いるが、しかし、懐疑を論争としての言語使用の実践へともたらすとき、われわれは例えば、人間、世界、社会、その他あらゆる「存在」に関する我々の知識を、日々構築しているのだという自覚を得ることができる。この境地こそ、他者を沈黙させるのではない、ともに表現の可能性を探っていくような論争へと、人をいざなう最初のステップなのである。

2009年4月26日 (日)

穀物群落論

穀物群落論。
これは私がいまさっき思いついて、適当にネーミングしたひとつのアイディアだ。
あくまでも一つの比ゆであって、深い意味はない。

そしてこれはあまりに珍妙奇妙、そして乱暴な考察である。
したがって、以下に該当する人は読まないほうがいいだろう。

①環境保護は大切だと思っているひと
②冗談の通じないひと
③まじめな人

このいずれにも該当しないと自認した方のみ、以下へ進まれたい。

1.

その日、私は病気で、どこへ出かけることもせず、悶々と窓から外を眺めていた。
吹き渡る春の風に、一斉に茂り始めた木々の青葉がようようと揺れている。

それを漫然と眺めている。頭の中には、何の言葉も、具体的なイメージもない。
しかし、なにか、いてもたっても居られないような、あせりのようか感覚に襲われる。
そして言葉ともイメージともつかないうごめきが、頭の中を流れていくのを感じるのだ。
言葉以前、イメージ以前の精神の躍動とでも言おうか。こういうのを、無意識の生成作用などという専門家もいるのだろう。

2.

こういう流れ、無意識の生成作用をどう処理すべきか、
いつも私は解き得ぬ問いへと迷い込む。
多くの人はこれを芸術という形で昇華したり、肉体を動かすことで昇華したり、商売へと昇華したりするのだろうが、
ちょうど今日の私は幸運にも病気なのだ。行動を起こす余力はもうない。

この生成作用を働かせたいという強迫を、上記諸々の現実のために、「役に立つ」生産の流れへと接続することができたなら、それはどれだけ幸福な、そして不幸なことだろう。

さらに私の無意識の生成作用を見守る、私自身の衰弱しきった覚醒した意識は、「現実」ということの、あまりにも儚いその本性だけをただひたすら思い出す。
すべては夢なのだ、と。
私が知る現実というのは、私に先立って存在するものではない。
それはひたすらに、私との関係性において、
正確に言えば私の認知作用によって作り出されたイメージなのである。

独我論とでも何とでも批判するのは自由だが、
そのときの私には、私の外部に即自的に存在する、私にとって存在する以外の現実というものが確かに存在することを確信できるほど、体力が残ってはいなかったのだ。
あるのはいまここの、闇雲に流動している精神のみ。
あるいは、「私も」、そもそもそういうものがいればの話だが「他者」と私が共有している確固たる「現実」の存在などというのは、この流動する精神の一作用、不完全に訓練された作用の産物に過ぎないとさえ思うのだ。

3.

夢を生きること。
自分自身の精神を見つめること。
精神というスクリーンをつきぬけ、そこにうごめくイメージをうごめかせている当の流動的な運動、生産力の本体を感じること。
そいういう原始の精神に私は強く惹かれている。

人間が人間になったころ、とでも言おうか。
1万年前だか、3万年前だか、5000年前だか、つい最近かは知らないが。
私たちが森という生態系の中から追い出され、サバンナで暮らし始めたころ、とでも言おうか。

徐々に発展した大規模に組織された穀物生産は、いまでいえば「遺伝子組み換え」の処理を時間をかけて行ったことに匹敵する、いや、それ以上の強烈な、自然の生産力と人間の生産力をひとつにリンクさせるプロセスだ。
この結果、人間の集団と、大規模に生産される穀物からなる、「人工的」な自然環境が形成された。

4.

ここで、人間と植物、食べるものと食べられるものは「ひとつ」なのだ。
この「ひとつ」のつながり方が、まだ、森の生産力にゆだねられていたころ。
大量の単一種の生産のために人間が隷属させられるという、単一穀物支配の時代が来る前のこと。そういう森の中に生きた遠い祖先たちの記憶というのは、おそらくもう失われてしまっているのかもしれない。私たちは森との関係を失い、穀物群落との関係を構築したところで、別種の生物に変容したのかもしれない。

いまや単一作物の強力な増殖過程に、完全にハチの子としてからめとられているわれわれとは違って、まだ森の多様性のなかに生きていた人間たちの精神のあり方。それを、私は思い出すことができない。

単一種の穀物の大量生産とともに、人間は、その植物を増殖させるための道具になった。
ふつう思われているように、「人間が作物を利用している」のではない。
事の真相は逆である可能性が極めて高い。

作物となる植物の方が、人間を利用しているのだ。
あるいは一方が他方をどうこうするという言い方自体がまったく不適切かもしれない。
人間の生産力は、植物の繁殖力と同期している。

この同期した一体性のなかでのみ、人間も、穀物も、それとして生きている。

ようはものの見方の問題だ。
動物が植物より優れているというアイディアだって、どれほどの根拠があってのことか。
捏造された根拠。出発点の根拠はいつも捏造物だ。
強烈な観念の壁を立て、それ以前を思考できなくしたというだけのこと。

更に言えば、こういうものの見方、ものの考え方というモノさえ、この穀物群落との共生関係の中で構築される生産手段の一要素に過ぎないかもしれない。

穀物植物が、自らの大繁殖のための繁殖力として人間群を見出したとき、いわゆる文明が始まった。
人間は集団で川の流れを変え、肥沃な土地を作り出し、植物を大繁殖させる。毎年毎年あきもせず。
増えた人間たちのうち、なぜ余ってしまった一部の人々が、集団の生産力を活性化させる役割を担うようになる。
観念を利用して。原始からあるイデオロギーだ。生産力をどこからか自分たちの集団のなかへ持ってくること。生産団体として自分たちを組織すること。

5.

人間こそが生産力の根本であり、あらゆるものは人間にとっての対象物であるということ。対象物とは生産の対象だ。
ところが、順序は逆である。
対象物の方が、 それを対象として見出す主体を二次的に要求し、生産しているのだとしたら。これは恐ろしいことである。
憑依された、というか、憑依されてはじめて憑依され た限りでの憑依された者として生まれるということ。
生産力を付与された人間というのは、徹頭徹尾植物に憑依されたものであり、植物群落の生殖補助装置とし て、その器官のひとつとして出来上がっているのだ。

森を焼き払い、単一作物の草原を作り出そうとする人間。
二酸化炭素を増大させる人間。
そして草原は砂漠になる。
とはいえ、地球で水の循環 がある限り、どこかに一定の植物群落は生き残ることができるだろう。
もとはといえば、地球の大気の組成を組み替えたのは植物ではなかったか。植物は、働き 蜂としての人間を大量生産することにより、またあらたに大気の組成からして組み替えよう、地表に降り注ぐ太陽光の波長を選択しなおそうと、しているのかも しれない。
仮に植物の王のようなものがどこかにいるとすれば。おそらくこういうことをもくろんでいるに違いない。

6.

私はいつも植物に呼ばれ、招かれているような気がする。
森の中を歩くときの安心感。あの溶け込み、包み込まれ、自己の存在が溶け出す感覚。
原始の森に生きた人間たちはなんと幸せだったことだろう。

これは究極のエコロジー思想であり、もっとも有害なエコロジー思想だろう。
自然環境というのは静的に固着したものではない。

「物 を生産する」という穀物群落意識に取り付かれた現代人に到るわれわれは、
どうしても一本の木、所与のひとつの群落を、そのままの同一性を維持することが自然環境を保護することだと思っている。しかし、長い長い、それこそ、10万年を最小単位とするような、植物の、いや、生命の、遺伝子の旅からしてみれば、 すべての個体は一瞬の瞬き、流水の中に一瞬現れては消える波紋のような出来事にすぎない。万物流転。

こういう発想は、おそらく極端な相対主義だ、として批判されるのが今の世の常だろう。
しかし、かんがえてみれば、相対主義で何が悪いのか、ということ。
絶対的に固守すべきモノなり、モノについての観念なりがある、という想定が、いったいどこから来ているのか、われわれのアタマがそういう想定をせずには居れないようになってしまった環境的背景をこそ、問わねばならないのではないか。

これは半分冗談の仮説だが。
雑草と、食料にすべき穀物とをえり分けるということ。雑草を抜き、穀物を残すということ。
おそらくこの作業を、多くの人間たちが、何万年か前から、日々繰り返してきた。
最初の人類が居るとして、その人から始まってこれまで生きたすべての人間の総労働というものを想定した場合、植物をえり分けることに費やされた時間というのは、相当のものではないだろうか。

同一性を差異についての繊細な知覚能力というのは、植物の特定種の繁殖を支えるための機能なのである。
この世、いや、あの世も含めて、それを最小の構成「要素」から構成される構築物と考えたり、その要素の組み合わせ次第でいろいろな個体が生まれるといったよくあるアイディア。
これは植物によって訓練された、雑草抜き器官の頭の使い方の癖である。

そういう意味で言えば、今日のわれわれの社会もまた、一つの穀物群落なのである。

2009年4月14日 (火)

都市の表面張力

 

コミュニケーションという観点から言えば、自己とは鏡としての都市に映し出される一つの影である。そして都市もまた、それはそれで不定形で常に生成過程かつ解体過程にある自己、という自己「化」する作用の中に揺らめく一つの影である。

 ここでいう鏡とは、独特の曲率をもち、そして絶えず振動しているような、錯像生成器としての鏡である。あるいはそれは透過性の高い合わせ鏡でもある。認識の 起点になりうるような視点というものは、この鏡の向こう側かこちら側のどこかに仮設されるものであり、この動く不透明な鏡の中に据えられることはない。そ うであるがゆえに、自己が都市を眺めることも、都市が自己を眺めることも、どちらもこの鏡が常に生成する「ゆがみ」から逃れることはできない。自己も都市 も、どちらも他方の基点や根拠にはなりえない。ただ、いずれか一方に視点を置かざるを得ないという私たちの認識の癖のようなものが、都市を都市として見出 したり、自己を自己として見出したり、その一方を根拠にして他方を見出したりするのである。

 視点というのもいわばこの鏡の、一種のレンズ としての働きに根拠をもつ「焦点」であって、なんら実体的なものではない。あるのはこの震える鏡、ただそれだけである。この鏡が、そこに像を見出しうる焦 点を何箇所か、複数個所可能にするのであり、その一つ一つが、時に都市と呼ばれたり、自己と呼ばれたりするのである。

 いずれにせよ、この鏡は、そこに映し出されるすべての像の一瞬のゆらめきを、「ある実体の本来の姿」として見出す幻想生産能力としての焦点を、を与えつつ解消する、儚さなのである。

      

▼清潔志向

 21世紀初頭の都市のあるべき姿を象徴する再開発地域。
 そこに聳え立つ建物群は端的にあるひとつの設計思想の表現であることを隠そうともしない。意図的な思想の提示という、マスメディアの言語流通機構――そ れは私にとっては生きる現実のすべてであるといっても過言ではない――の中では表立つことがめっきり少なくなったやり方が、ここでは堂々と行われている。 しかしマスメディアによって視線を飼いならされ、育てられた私には、これが思想の表現であることが、そのときその場では気づきようもないのである。

 その思想とは透明なガラスとむき出しのコンクリート、そしてスライスされた木=木目によって記述されている。

 これらはいずれも、「モノ」を透明化する思想を表現している。

 まず透明で巨大なガラス。これは人工的にコントロールできない「風と音と光」をさえぎるという建築物の基本的機能の要請に従い、そのうえで実現された透 明化の思想の極致である。それは非人工的なものをさえぎりながらも,さえぎる当のものは透明化し、非人工的なものを見出しうる可能性をもった「視覚」の働 きをさえぎることはしない。
 重々しい石積みの壁であれば,音や光,あるいや暗闇をさえぎり,人間の五感に「自然」が触れてくることを防いではくれるが、当の壁自体が視覚的な障壁と して、阻害、あるいは不快な刺激の源として立ち現れてしまう。それと同時に、こういう壁は、壁の「向こう」というものの存在を常に私に、無気味なものとし て押し付けてくる。
 ところが、これがガラスとなると、私はガラスによって何かがさぎられているということにすら気づかない。さえぎるものが透明化することにより、「さえぎる」という働きそのものが知覚にいたることがさえぎられるのである。

 むき出しのコンクリートの柱も、モノを透明化する思想の表現だ。コンクリートの表面は、その内部まですべてぎっしりと充実したコンクリートという実体に よって満たされていることを示唆している。コンクリートの壁や柱に対して、これを見、触れ、温度を感じ取る人にとっては、コンクリートは雑味のない、透明 な、支える力そのものの象徴である。
 金属であることが明確に分かる形で、隠されることなくあえて目に見える形で配された鉄骨などの構造物もまた、これと同じ、その「支える」という作用、安定した人工的秩序に充たされた空間というものの存在を宣言してやまない。
 コンクリートは、ガラスとは違い「外部」とこちら側の「内部」との完全な遮断ということを主張している。それは本質的に不可知の外部の存在可能性という ものを内部に染み出させるインターフェースにもなるのだ。だからこそ、今日のコンクリートはむき出しでなければならない。過剰に塗装されたり、壁紙を張ら れたりしてはならないのだ。はげかけた塗装やたわんだ壁紙は、端的に「そのさらに向こう」の目に見えない質感をありありとこちらに伝えてしまうではない か。その「隠されている事があからさまである」向こうのものとは、コンクリートの塊かもしれないし,そのさらに外側の世界であるかもしれない。

 透明なガラスが、まるで「外」をガラスケースの中の装飾品のように「内部化」「内部へ隷属」させる機能を果たすのと似て、コンクリートもまた外部と内部の区別、あるいは内外の闘争という文脈の中にある。
 むき出しのコンクリートは自らが作り出す人工空間の安定性という象徴的機能によって、端的に「外部」の存在を無視しても良いもの,あるかもしれないしな いかもしれないが,いずれにせよ内部に居る限りはまったく関係のないことにしてくれるのである。地下空間の壁そのものを光らせるやり方も、これと同じ思想 の表現だ。外部は完全に無視しうるものという形で、ある意味で内部化されるのである。

 最後は木目である。ガラス張りでコンクリートや鉄骨がむき出しになった空間に、ところどころ「木」が配される。しかしそれは間違っても自然の森の中にあ るような、じっとりと湿って、表面にカビやら得体の知れない付着物がこびりつき、その表面で毒性をもっているかもしれない昆虫や奇妙な植物たちが殺し合い を演じているような、そういう生命として木ではない。それは丁寧にスライスされ、塗装されたモノである。
 これは自然の猛威を人間が懲伏していることの象徴なのだろうか?
 懲伏というアイディアにはまだ人間と自然との対立,闘争,せめぎあい,ぶつかりあい,要するにある境界面や衝突面で区切られた二つの世界の存在を前提に し、そのことによって外部というものの存在を許している。しかし、限りなく透明な=すべてを内部化するコンクリートとガラスの箱のなかに配された木は、も はや外部としての自然を内部としての人間世界が制圧したことの象徴ですらない。そこには外部がない。外部と内部の対立はなく、すべては「内部」なのであ る。

 木、それも表皮を剥ぎ取られ切断された木の「木目」は、これもまた透明化の働きの一種だろう。
 表皮というしばしばおぞましい対象を取り払われ,樹液の流れもなくなった木。むき出しの木目、それもひとめでそれとわかるあからさまな木目柄のプリント ではなく、生の木を木目が見えるように加工したものがこれだけもて囃されているという事態が、透明化へと向かう思想の表現である。透明であるということは すべてを「内部化する」ことである。異質な外部、見えないもの、見えない壁の向こう、といったことが存在する権利をそこで失うのだ。樹木の内部空間という 充実し、本来的に視線が及びえない場を、こうしてスライスすることで、視覚的な対象物に、つまりこちら側の内部に属するものにするのである。これと同じこ とは、塗装を施されず、表面を程よく磨き上げられた金属についてもいえる。

 このように現代の都市は透明化されている。都市に暮らす私達の観念は、この点で透明化という思想に貫徹されている。都市化とは、透明化することだ。
 わたしたちの無意識の設計思想は、絶対的な清潔を要求する。そこではあるものの同一性と、ものとものの差異とが明確に定まっていることが要求される。ア ンビバレントな存在や、不確定な事柄、正体不明の気配などをことごとく排除し、あるいは「何者であるか」明るみに出そうとする。
 清潔な都市空間に配される監視カメラのシステムは、権力の恐怖やプライバシーの侵害といった決まり文句の文脈では撤去できないものになっている。それ は、むしろ安心や気遣いの無さ、といった文脈で語られ、求められる。私たちは深い精神の運動のレベルで、より基本的な思考様式のレベルで、透明化を貫徹す るためのあらゆる技術的なシステムの形を求め、定めようとしているのである。

 透明化を求める都市.ここにあっては、内部化できないことがらは、外部という居場所を奪われるがゆえに、徹底的な排除、 存在の抹消を要求される。現実の都市にあふれる、カビ、ゴミ、壁に張り付いた油とホコリ、昆虫、腐敗臭、他人の話し声、雑音、病気、空気、粒子状物質、環 境ホルモン、電磁波、隣家に住む犯罪者などなど、古くは外部に生きていたものたちが、浄化という活動の対象として内部化される。こういうものたちを常に掃 き清めることで、清潔な表面、透明な表面、外部をなくしすべてを内部にする観念的に透明な表面で世界のすべてが埋め尽くされる。   

 そういう設計思想を貫徹したところで、しかし、どうしても最後まで残ってしまうのは、ほかならぬ人間なのである。清潔な透明な平面の上に、人間だけが見 える。人間の声だけがざわざわと響く。人間という騒音であふれかえる都市。騒音はまた他人の声ばかりではない。騒音は、自分という人間の内部からこそ、響 き渡ってくるのである。 徹底的な内部化の中心であるはずの「私」自身こそが、ほかならぬ外部の流入口として、透明な空間にぽっかり穴を開けているのである。この穴を埋めようと、 私たちは、音や、映像や、声や、その他諸々、出来上がった記号の群を強く求めるのである。

 私は、高層ビルの深基礎を掘っているところを見るのが好きだ。
 なんともおぞましい。大地の底に、いろいろなものが埋まっているであろう泥の中に、ずぶずぶと表面の粗い金属かなにかの柱が打ち込まれていくのだ。この柱は、埋められた瞬間から腐敗し始めることだろう。

 表層を一枚はぐと、その下に見えてくるものは内部化できないものたちのうごめきである。
  「表面」を磨き上げようとする思想と、表面を曇らせ、傷つけ、透明性を奪おうとする自然の要求。表面を磨き上げようという思想をある程度まで貫徹すること を可能にした今日の技術は、ある意味で、私たちを不幸にしているといえないだろうか。それは排除し得ない不透明なものたちの生きる場所を奪ってしまうことで、その実、私たち自身の生きる場所を奪ってしまおうとするのである。
 外部と内部を分かつ働きとしてのこうした「表面」群の作動。それは安定した内部という幻想を生み出すと同時に、副産物として外部を生み出したのである。外部もまた、この表面の作用の産物なのである。
 外部を作り出しつつ外部を消去するということは、この表面にとっては不可能な作業なのである。

 表面の粗さを人間の痕跡として、人間という魂が憑依する呪物として意図的に生産することを、明日の技術は考えなければならないのではないか。



2009年4月 1日 (水)

空虚で、常に新しいコトバ

「ウェブ2.0」と呼ばれる世の中が、従来の世の中と「違う」ところ・・
その最も特徴的な差異というのは一体どこにあるのだろうか。

数多ある「ウェブ2.0」がらみの言説のなかで、
私がたまたま見つけて「おっ!これは!」と思ったのは、
『ウェブ人間論』という新書にあった、平野啓一郎氏の次のような言葉である。

「身体性から切り離されたところで、あらゆる人間が活発に活動するようになったというのが、ウェブ登場による一番の変化なんだとおもいます。[・・・]「分身」をウェブの世界に放り込むような感じですね。そこからさらに、アイデンティティからも切り離された「書き言葉」そのものが、匿名化されてダイナミックに流動し始めたのが、ウェブ2.0以降なんでしょう。」(梅田、平野(2006)『ウェブ人間論』新潮新書 P.184)

この一文、私がいまこうやって、ブログを書いているときの感覚というのを
実に的確に言い当ててくれているような気がするのである。

ブログに文章を書く場合、
「誰かに向けて書いている」という感覚はほとんど無い。個人的には。
自分の脳の中に、次から次へと浮かび上がってくるコトバを、
そのまま刻み込んでいるという感覚があるだけだ。

世間の素朴な良心からすれば、
こういう文章の書き方に眉を顰める向きもあるだろう。
・・・コトバは誰かに向かって、何かを伝えるためにあるのだ、
という常識からすればである。

しかし、ウェブ2.0的なコトバを書き付けて・・・、
いや、流していて思うのは次のことである。
「誰かに向かって何かを伝える」ということは、それほど安易なことだろうか??
と。

「誰か」とは誰か。
「何か」とは何か。
そして「伝える」とは何か?

発信者と受信者、そして伝送される物理的なモノとしての情報(信号)…
そういうものを、コトバのやり取りを規定する根本的な、
第一次的な要素だと想定することが、実は非常にあやういことなのではないか、
というのが、私の考えである。

発信者、受信者、そしてモノとしての情報。。。
そういうモノたちの「実在」を、当然のように要求できるのは、
おそらく慣れ親しんだ人間関係があり、
そのなかで、使い慣れたコトバを、
暗黙の了解で誰もがその意味するところを
「わかってくれる」と信じることができるところで、
そういう「場」を前提にしてはじめて可能なのではないかと思う。


で、わたしのような郊外の核家族に生まれた子供であり、
建前を飾ることだけを義務教育期間にたたきこまれた者からすると、
そういう「場」や、「場」に支えられた聞き手や情報といったモノたちの実在性、
更に言えば情報発信者としての自己の実在性というのは、
どうも疑わしくて仕方が無いのである。

むしろ、ありありとリアリティがあるのは、言葉だけなのだ。
聞き手も、それが担う「正しい意味」もないような、
上滑りするからっぽのコトバ。
そういうコトバを発するという行為、
それも主体無き行為をただむやみに繰り返すことだけが、
私にとって実在性のある、ありありとした感覚を教えてくれるのである。

この聞き手を持たず、意味を担っても居ないような言葉。
しかしそれこそが、むしろコトバの本義を教えてくれるような気がしてならない。
即ち、それまで存在していなかった事柄、
問題にならなかった事柄、対象として認識されていなかった事柄・・・
それについて語り問う言葉が無かった事柄を、
それとして発見的に構成することこそが、
コトバの原初的な振る舞いではないかと思うわけである。

いわば、儀典的な決まり文句のやり取りではなく、
「新しい言葉を生産する」ということの方に、コトバの本義があると思うのだ。


とはいえ「新しい言葉」とは、
どこからか唐突にやってくる全く未知のものではないし、

どこかの誰かが全く個人的に唐突に思いつくものでもない。

新しい言葉は、既存の言葉の中から、
儀典的な決まり文句に沈滞しているコトバの中からのみ
生まれるのではないだろうか。

従って、言葉の「新しさ」とは、使い古されていない新品という意味ではなく・・・

(そもそも、誰も使ったことがない言葉などあり得ない。
あるいは誰も使ったことの無い「新しい用語」を生産し広めたところで、
その「意味」を、既存の言葉で言いかえることによって説明してしまうようでは、
その新しさ、とは、単なる従来の言葉とその思考様式の範囲内での
「言い換え」に過ぎず、なにも「新しい」ことはない)

新しい言葉とは、むしろ使い古された言葉、
つまり既存の言語を用いる我々が極めて慣れ親しんだ言葉を、
多義性へと解放し、
従来とは別の意味を担うものとして、再構成することによって成立する。


・・・
ことの核心は、言葉が既存の思考様式、
ものの見方、ものの考え方を揺さぶるか否か、にある。

そういう新しいコトバをもってしてはじめて、
日々、新しい世界や、新しい他者と出会うことができるのだ。
そういう意味で言えば、一見上滑りする、
聞き手を持たない空っぽの言葉のほうこそ、
そういう出会いを引き起こす触媒になりうる可能性を持っているのではあるまいか