沈黙させないこと ――ハンナ・アーレント『暗い時代の人間性について』より
「人間コミュニケーション学」という看板を背負った組織に属していたころ、いろいろな場所で自己紹介をするたびに、「人間コミュニケーション学?それは何ですか?」と、尋ねられることがしばしばあった。
そういう場合、とりあえず「人間が情報技術を使ってコミュニケーションする事態を、技術的、文化的、社会的に問う試みです」と答えていた。たいていの普通の人はこれで納得するのだが、少し頭の切れる人はすぐに見抜いてくる。これでは「人間コミュニケーション学とは人間のコミュニケーションの学問です」と言っているに等しく、つまり質問と同じ言葉を繰り返しで、特に何かを答えていることにはならないということを。
そうなると「結局、何のことなのか?」と、また最初と同じ質問を受ける。そのときには「人間コミュニケーション学とは、情報化社会における人間と情報処理-通信技術の関わりについて考える学問です」と言いかえることにしている。この答えであれば比較的多くの人が納得し、それ以上の詰問を取り下げてくれる。
こうした問いについては、一般的に「人間」を定義し、「コミュニケーション」を定義し、「学」を定義する、という具合に一連の定義を積み重ねることで、ある程度説得力のある「答え」をつくることができる。しかし、私自身が釈然としないのは、他ならぬこの「答えをつくる」作業である。
「答える」ことが、実態としては、ある言葉の別の言葉への言い換えであるとすれば、つねに複数の言い換えの可能性があるはずである。そのとき、可能な言い換えの群のなかから、どれかひとつの言い換え方に特権的な地位を与えることによって、はじめてひとつの語彙の意味するところが定義される、という具合である。そうした定義に基づいて一貫した答え―説明が生まれる。
この「定義する」ということ、ここに落とし穴が隠れている。社会的な語彙の場合、その定義とは、予めどこかで決まっている規則、決定済みで変更不可能の「所与」のものではないのである。定義とは、それを「定義する」という我々の活動を抜きにしては考えられない。「定義する」という、ひとつの言い換えを他の言い換えからこの特権化する行為は、きわめて意識的かつ無意識的な「選択」なのである。
となると、人間コミュニケーションとは何か?という問いに対する答えは、ひとつではなく複数あり得ることになる。もちろん、そのなかのどれかひとつに「決定する」よう要求することはたやすい。ただしその決定は、自然な所与ではなく、あくまでも誰彼の決断という行為に依るということを忘れてはならない。
さて、そこで、「人間コミュニケーションとは何か?」という問いに対して、「それは~である」という答え方で応答し、一義的な結論を断定する前に、しばらく回答を留保し、踏み留まってこの問いに答えるための出発点を踏み固めてみたい。
そもそも問うことと答えること、それは一体どういうことなのか。
それを考える手がかりは「沈黙」という言葉にある。
問題はそもそも「~とはどういうことか?」と問い、答えを求めるとはいかなることとして説明しうるのか、というところにある。ここには「人と人が言葉を交わすこと」について本質的な問題が隠れている。この問いを解き明かす上で、ハンナ・アーレントの『暗い時代の人間性について』(仲正昌樹訳,情況出版,2002年,原著1959年)を読んでみよう。
『暗い時代の人間性について』は、私たちが、人と人とが「言葉を交わす」ことの意義について再考を促す。この本でアーレントは、とある思想家を引き合いに出しつつ「人と人が議論をすること」こそが、「人がものを考えること」を根本的に支える態度であるとする。
「彼の自立的思考と活動を結び付けていた秘密の関係の本質は、自らの思考を決して結果に結び付けなかったこと、更に言えば、思考自体によって作り出された困難の最終的解決としての“結果”をはっきりと放棄したことにありました。彼の思考は真理を犠牲にするわけですが、それは、いかなる真理であれ、真理は純粋活動としての思考を必然的に静止させてしまうからです。」(同書P.18-19)
ここでいう「活動」とはアーレントがしばしば用いる概念で、人々が互いに「なにをどう言わねばならないか」が予め決まっていないところで言葉を取り交わすこと、といった意味合いととっておこう。
注目すべきは、アーレントが、「思考を結果に結び付けない」ということ、そして「真理を犠牲にすること」を、人がたがいにものを考え、議論をすることを根本的に支える態度として評価している点である。
これはいったいどういうことなのだろうか。
常識的に考えれば「結論」や「真理」ほど、私たちの思考にとって重要な事柄は無いと思われる。人が思考するとはそれ以上疑い得ない真理を捉える作業であり、人と人とのコミュニケーションは、なんらかの共通の結論、真理に基づく最終的な合意に達するための作業だと言われることもしばしばであろう。ここでは即ち、「みんなが同じように考える」ようになること、「誰が考えてもそれ以上の反論が出ない最終的な解答へと達すること」がコミュニケーションの目指すところだと考えられる。
しかしアーレントは、こうした結論や真理は思考と議論を制約するものであると言う。
結論や真理ということを思考やコミュニケーションの到達点として要求する発想は、じつは重大な苦難を含んでいるのである。
例えば、「みんながひとつの結論に達し、同じように考える」などということが実際に可能だろうか?
複数の人が「どうしても同じ結論に達することができない」という事態は日常的によくありうることだ。
一見、みんなが一つの結論に合意したように見えても、実際には疑いを抱きつつも沈黙している人がいたり、よく理解しないままとりあえず合意した振りをしている人がいる、ということだけではない。誰かがどうしても自分たちと同じように考えようとしないとき、例えば「科学的な客観性」を疑うような人があらわれたとき、私たちは「その人は無知蒙昧なのだ」ということで納得してしまう。そして、「ああいう人とは議論してもはじまらない」となる。
複数の人々のあいだで議論を結論づけるとは、どこかで議論を中断し、それ以上の問題提起を許さないという態度に支えられている。それは結論付け以降の異論に対して「それはもう決まったこと」と言って耳を貸さないという態度である。そこでは最終的解答のあとに沈黙を残すことをめざして、言葉がぶつかりあう。「結論が決定されること」とは、どれかひとつの断言が他のすべての異言を掻き消して、あとには沈黙を、あるいは単調な同語反復を残すことをめざして、沈黙しようとしない人を「黙らせる」ことなのである。
複数の人々のあいだに沈黙だけを残すような強制的な結論付けに対して、その手前で踏みとどまり、沈黙させないということを可能にすることの大切さを強調するのが、アーレントがここで述べていることの核心である。
別の所でアーレントはつぎのように書いている。
「一つの決まった世界観を取れば、可能なパースペクティブの一つに固執することになり、世界の中での更なる経験を受けつけなくなってしまいます。」(同書P.15)
更なる経験を受けつけるとは、ある議論の問題設定(問い方-答え方)を複数化する可能性を認めることである。
いうなれば「議論が噛み合わない」という根源的な経験に立ち戻り、そこで相手を黙らせようとしないこと。私にとっては何ら問題にならないようなことを、切迫した問題として自分自身に引きうけている他者に対して「それは問題外だから考えるのは止めなさい」と命じないこと。つまり今現在の私の考えには完全に還元することのできない他者の言葉の可能性を認めることなのである。
複数の人間が互いに「言葉を交わす」ことの核心は、なによりもその「会話を終わらせない」ことにある。
「会話を終わらせない」とは、例えば、ある問題が、私にとってはまったく問題にならないような瑣末なことであるのに、それがある他者にとっては切実な問題として受けとめられているとき、私の立場から他者に対して「それは問題外だから考えるのは止めなさい」と命じることをしない、ということである。
別の言い方をすれば、今現在の私の「言葉づかい」に完全に還元することのできない他者の「言葉づかい」の可能性を、私が認めることでもある。
そのためには次のような「言葉」についての考え方が要請されます。即ち、私たち複数の人間は「同じひとつの言葉」を語り、聞きあっているようでいて、じつはその言葉の意味するところには各人の「言葉づかい」に応じて大きなばらつきがあるということである。
そうであるが故に、例えば客観性を必要とする議論はまず言葉の意味を厳密に定義しなければならない、ということになるのである。ひとつの言葉がもともと単一の固定した意味しか持っていないのであれば、そもそも「意味を定義する」という個別の作業は必要ないはずだろう。
言い換えると、言葉の意味というのは、具体的な話し手や聞き手の間での不断の定義と再定義の繰り返しによって、決定されたり、決定を解除されたりしている「動態」である。「ある言葉Aの意味はA’に決まっている」という言明は、じつは、「言葉Aの意味をA’と決めなさい」という命令なのである。この命令が複数の他者たちを服従させ、沈黙させることができるかどうかはわからない。即ち、「いや、私は言葉Aの意味をBと決める」と宣言する他者の可能性を排除できないのである。
アーレントがその重要性を指摘した「会話を終わらせない」ということは、言葉を、不断の定義と再定義を繰り返す動態として保つということである。
そういう会話を開始し、持続させるために必要なことは、まず私が他者の言葉を「聞くこと」である。
他者の言葉を「聞く」とは、他者の言葉を私の言葉に翻訳してしまうことではなく、逆に、他者の言葉を「私にはよく分からないこと」として留保することである。
おなじ言語文化圏の他人の言葉であれば、私はその言わんとすることを「おおまかに分かる」ことができてしまう。これは幸運なことではなく、むしろ不幸なことなのである。なぜなら、中途半端にわかったつもりになってしまったことで、「とてもよく分かるような気がするけれど、もしかすると分かっていないのかもしれない」という、曖昧な中間領域を留保する可能性が失われてしまうからである。他者を聞く耳にとって何より重要なことは、私が日常的に用いている、慣れ親しんだ言葉を、私とは違う他者が用いるとき、その意味に、微妙なズレがあるような気がする、という感覚を保持し続けることである。
言葉は、複数の人間のあいだでの共有性と、個別の個人における特異性という、両義性のもとにある。
このことをアーレントは、「世界」という概念を用いて考えている。アーレントによれば「世界」とは複数の人間たちの「あいだ」であると規定される。これを敷衍すれば、複数の人間たちとは、私とは違う存在でありながら、かといってまったく無関係な無視できる相手でもない人々のことと考えられる。私が、そういう疎遠でありながら無縁ではない人達と「言葉を交す」ことを可能にしている関係、互いに語ったり聞いたりし合っている空間を成立せしめているものを、仮に「世界」と呼んでいるのである。(『暗い時代の人間性について』 仲正昌樹訳,情況出版,2002年,原著1959年 P.5)
アーレントのいう「世界」とは、複数の異なる人間たちが言葉を交わす関係性である。
世界は常に、不断の「会話」、具体的な複数の人間が言葉を発し、聞くことによって保たれている。
ここで世界と会話は一つなのである。「世界」つまり不断の会話とは、「人間同士が問いかけあい-応えあう関係」であり、その関係こそが世界なのである。
世界は、ひとびとが語りつづける活動の只中で、不断に維持され、更新される。ここで世界にとって不可欠なのは会話を断たないことだと、アーレントは言う。不断につづく会話こそが、わたしたちがそこで何事かについて語り合うことを可能にする「世界」を開く。
それは、予め決められた「言うべきこと」の反復に終始することではなく、また真理を呼び出す「最終的な言葉」の断言によってあとに沈黙を残すのではない、終わることの無い会話である。つまり、「何をどう言うべきか」ということが予め決まっていないところで、複数の人間が互いに語りつづけ聞きつづける無限の会話である。
アーレントは、そういう「世界」が失われてしまうことに警鐘を鳴らしている。
私たちひとりひとりが言葉を交すことへの信頼を失い、沈黙するとき、言葉が交わされる人間の「あいだ」の空間は失われてしまう。世界を失ったとき人の言葉は他者を失う。他者の声、自己の言葉には還元できない他者の言葉を「聴く耳」を失う。そして「世界」は私の言葉によってすべて最終的かつ決定的に名づけられるものでなければならない、ということになる。
それ以上を会話を続けることができなくなってしまったとき、あとに残るのは沈黙である。こうした沈黙をやぶるため、アーレントは「世界を聞き取ることができるように」しておくことを呼びかける。(『暗い時代の人間性について』 仲正昌樹訳,情況出版,2002年,原著1959年 P.19)
他者の言葉を聞くということは、自分自身の、凝り固まったものの考え方に、他の人が提示する別のモノの考え方を衝突させること、つまり複数の人間のあいだには、複数のものの考え方があるのだ、ということを知ることである。
「会話」を閉じないために、つまり世界を不断に呼び出す新たな言葉の生成の共同作業を中断しないために、なによりも必要なことは、他者から発する呼びかけを「聴く耳」である。そうした耳とともに、絶え間なく「多くの声」が響くのである。何を言うべきかが完全に決まっていないところで、繰り返される「語り」と「聴き」は世界に支えられているとともに、絶えずあらゆる事柄について別様のあり方を論じ-問い得る新たな世界を開くのである。
人間が人間であることの意味もまた、こうした言葉のやりとりの中で、語り重ねられてくるものである。人はそもそも、他者の言葉を聞き、それを引き継いだところに始まっているのである。
ちなみに、そうした会話における「真理」とは、それ以上の反論を禁じるような固まったものとして与えられるものではなく、あくまでも真理を目指す無限の行為、人と人とのあいだで繰り広げられる、終わることの無い相互行為が目指す、不可視の「ゆくすえ」のような事柄になろうか。
最初に立てた問いは、そもそも問い‐答えを求めるとはどういうことか?ということであった。
ある「問い」と、それに対する「答え」もまた、こうした世界での語りと聴きの産物として考えることができるのではないか。
ここで世界が促すのは「応える-答えを定義する」活動、言語的な命名を、絶えず別の命名へと引き継ぐこと。どこかに「最終的な答え」を決めてしまいそれ以上の問いの連鎖を断ってしまうことのないようにすること。特に、複数の異なる人間の理解に晒される社会的な用語の定義にあっては、それを「既に定義されたこと」として取扱い、既に下された定義について「それはもう決まったこと」として、その定義への新たな問いかけを予め禁じてしまうことは避けねばならない。
日常的には言葉の意味は、常にせめぎあいの只中にある。言葉の「ただしい定義」は、それ自体としてあるのではなく、常に、「定義する」という活動に基づいているのである。アレントが世界という言葉に託して呼びかけているのは、この定義する活動の複数の可能性を何らかの権威に基づけてひとつに限定してしまうのではなく、ある言葉にかかわる複数の人々のあいだの不断の会話として保つことだと言える。いうなれば、どの断言にも同一化せずに、決定不可能なところで言葉を集め続けることを、アレントは呼びかけている。それによって「決定が下されていないところで、新しくはじめること」、迷うことと、いずれか一つに「決めよ」という既成の選択肢への同一化を迫る命令に抵抗することに、権利を与えるよう求めている。
さて、ここから、人間コミュニケーションとは何かという問いかけに、仮に答えることができよう。
つまり人間にとっての情報流通、記号交換とは、どういう事態なのか、アレントの議論からそれを次のように考えることができる。即ちそれは、言いなおし、聴きなおす作業である。
つまり誰かが何処かで発した断言に同一化することのできないところで、複数の言葉の「あいだ」で、言葉を集めること、「言いかえること」「言葉を付け加えること」の不断の繰り返しである。あるいは「未だ語り得ていない」ことがある、という予感から、言いなおすための「別の言葉」を模索することではないだろうか。そして、一度中断してしまった会話を再びはじめることである。
そのためには沈黙を聞き取る耳が必要になる。聴きなおすためには、一度聴いたことを何かの一義性へと即決回収しない、わからなさを留保する耳が必要なのである。
そうした耳を研ぎ澄ますことが、他者を沈黙させないことにつながるのである。

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